校長ブログ

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多様な個の集団

以下は私が25年前、新米教師の頃に本校の生徒指導部会報に寄稿したものです。
四半世紀を経て読み返してみると、今も変わらない思いもあるので、改めて自分自身の回顧の意味も含めて載せます。

学生時代、家庭教師のアルバイトをしていた。その頃はまだ、私自身コンピュータはおろかワープロすら使ったことが無かった。それが今では当たり前のように使っている。そしてそのアルバイトをしている時に今の高校生のライフスタイルを予感させる経験があった。

それは私がいつもより少し早く家庭教師をしている子の家に行ったとき、その子のお母さんが「今友達が来て遊んでいるので、急いで支度させます。」と言うので、私は別に自分が早く来たので構わないという内容の返事をして、部屋へと向かった。其処で私は今までに経験したことの無い光景に驚かされたのである。
確かに其処では四人の子供たちが遊んでいるのだが部屋の中は妙に静かで、四人に会話が無い。思春期の中学生が四人集まっていれば、友達や流行や恋愛などについていろいろ話しているものと思っていた。ところが違う。一人はTVゲームに夢中で私が部屋に入ったことすら気付かない。一人は黙々とマンガを読んでいる。もう一人はお菓子を食べながらTVゲームの順番を待っている。最後の一人はトランプで占いか何かをしている。
つまり、一つの部屋の中で、四人で遊んでいるのではなく、四人が遊んでいるのだ。四人で一つの遊びをするのではなく、四人がバラバラにそれぞれの遊びをしている。この様子に私は「集団としての個」ではなく「個としての集団」を感じた。そして彼らは私の侵入に気づくと、まるで私が目に映らないかのように「じゃ、またね」と言ってそれぞれが帰っていった。
最近、生徒を見ていてこの種の驚きを感じることが多い。それにはワープロやパソコンの普及により、「人」との接触が極端に減っていることが一因として挙げられるのではないかと思う。
例えばインターネットに代表されるように、見えない相手から、何時でも、何処でも、自分の求める情報が簡単に得られる。つまり家に居ながら敏速かつ正確に世界中の情報を瞬時にして得られる。またその情報回路の中をサーフィン(検索)して、自分の情報に関連することだけを無制限に引き出すことが出来る。問題はこういった情報収集に生身の人間との形式的なアクセスを必要としない、ということである。従ってそこでは個人的価値観が生成され、強化されていくのではないだろうか。
また携帯電話についても同じ事が言える。他からの情報を取り逃がすことのないよう、まさに何時でも、何処でも、連絡を取ることが出来る。それは一見「人」との密なる接触のように感じられるが、実は限られた親しい人だけであって、知らない人が電話を取り次ぐという手間が省けている。(これらは決して文明の利器を否定しているのではない。私としてはむしろ積極的に肯定しているのだが。)
こうして個人的かつ多様な価値観は世代を問わず確実に生成されている。それは良し悪しだけで片付ける問題だけではないのかもしれない。例えば一人は黄色が好きで、もう一人は赤が好きなのを、一方を是とし、一方を否とすることが出来ないのに似ている。
更に、これらの電子テクノロジーによって周りを気遣うというパブリックな文化を失いつつあるように思う。もっと言えばパブリックな場を失いつつあるとも言える。つまりパブリックな場が個人相互の関係の場であるよりも、個人が並列しているに過ぎず、公共空間に集団性や個人相互の交流が無くなりつつあるのではないだろうか。
今やパブリックな場は人と人がコミュニケーションを交わす場であるよりも用事を済ませたらすぐに立ち去る便宜的な場所になろうとしている。それは公衆道徳の欠如や希薄なコミュニケーションを生む結果になるのではないかという危惧を抱かざるを得ない。
ところが一方では、単に情報を得るだけに留まらず、「人」との接触も強く求めるというパラドックスをも含んでいる。つまり生身の人間とのアクセスに飢えているのだ。本当は一人で居ることに寂しさを感じ、常に「人」との交流を求めて止まない。その代表例が現代高校生の三種の神器の一つ、ポケベルだろう。確かにポケベルによって高校生の生活は一変し、便利になった。これもパソコンや携帯電話と同様何時でも、何処でも、連絡を取り合うことが出来る。
しかし、彼らのポケベルで取り合う連絡は、勿論必要な事もあるだろうが、不必要な、他愛の無いメッセージの何と多いことか。一見不必要と思えるメッセージをやりとりすることによって、いつも友達と一緒にいるという一体感を味わっているのではないだろうか。だからこそ、休み時間の公衆電話に群がるのだろう。ところがこれもまた、音声無きメッセージであり、他の介在を必要としない、否、許さないものなのだ。
従って、彼らの交流は自分が親しいと思う相手、もしくは必要と思う相手とにだけに限られ、未知なる人、親しくない人との接触は避ける傾向にあるのではないだろうか。
そしてそれはますます個人的意識、個人的価値観といった、いわゆる個人主義を強めていくのではないだろうか。だからこそ自分と関係の無い情報には見向きもせず、そればかりか自分にとってマイナスの情報、例えば他人から注意されたりする場合、拒否反応から相手の言葉に耳を傾けようともせず、無視したりするのではないだろうか。
また、集団の中で一人の者が注意されても自分には関係の無いものとして自分自身のことに置き換えて考えようとしない。それ故同じ注意を何人もがされることとなるのだ。つまり五十人居れば、五十回同じ注意をしなければならないということになる。もし、一人に注意したことを全員が自分のこととして聞いていればこんなことは有り得ない。これはもはや個人がただ一つの場に居合せて居るだけの「個としての集団」にすぎない。
このような傾向を持つ子供たちに対し、どのような指導をしていけば良いのだろうか。それを求めていくことが今とても大切なことのように思う。勿論その指導は一様ではない。なぜなら保護者を含め、子供たちの学校に対する価値観も変貌しつつある現在、彼らが学校というパブリックな場に求めていることも様々であるからだ。それ故彼らの価値観の認められるところは認め、自分を理解して貰うために労苦を厭わず、こちらの価値観も提示しつつ、その最大公約数を求めていくことが必要なのだろう。
その為にも言葉を多くし、彼らとの接触を絶えず試みて、彼らの胸の内を開かせ、親しみを感じさせるようにしたいと思う。そして集団の中での自己(の役割)を認識し、より良き自己をポジテイブに追求するような個人を認めていきたいと思う。

長くなりましたがここまでです。

現在はSNS等により必要に応じて更に相手を選んだコミュニケーションをとることができるようになりました。同時にツイッターやフェイスブックなどにより自分のプライベートを見知らぬ人に公開するということも多くなりました。情報発信力に長けた人が多く、生徒のプレゼンテーション力も向上していると思います。

個別最適な学びと協働的な学びの実現に向けて、グローバル化、ダイバーシティなど最近異なる文化、異なる価値観を理解し、認めて協働していくことの重要性を改めて強く感じることが多くなり、ふと以前書いたものを思い出したところです。